日本ワインコラム

THE CELLAR ワイン特集
山梨・くらむぼんワイン

山梨・くらむぼんワイン

日本ワインコラム | 山梨 くらむぼんワイン 「一番の転機は、フランスへ行ったことです。23歳の時に留学をしました。当時は、家業を継ぐこともあまり考えていなくて、弟がいるので、どちらかが継ぐのだろうなぁ、といったような認識でした。」 アイルトン・セナに憧れて、慶応大学理工学部にまで入り、ゆくゆくはルノーでのエンジニアリングライフを見据えていたかどうかは存じ上げないが、ともあれ、野沢たかひこさんは、FW16程に不安定な大学時代に、学歴社会をコースアウトして、南仏へ飛び立った。 ▲ 「森の香りがするんです。」と、自社畑の土を香る野沢さん。わざわざポーズを決めていただいたのに、普通の写真ですみません。レンズ変えるべきでした。 「ニースのホームステイ先で、ワインを毎日出してくれて、それでワインを初めて美味しいと感じました。それまで、日本に美味しいワインってあまりなかったんですよね。元々は親の仕事にも興味がなくワインには関心がなかったのですが、フランスで体験した、家族や友達が集まり、ワインを中心にして人間関係とかが広まっていく、ということを地元の山梨でもやれたらなぁ、と思いました。 大学時代は、授業にも出ていなかったのですが、フランスに行ったら新しい人生の始まりという感じでした。」 煌びやかなニューライフ。周りには、自分のことを知っているものなど誰もいない。地中海を臨み、国籍の違う仲間たちと、夜な夜なワインをボトルで回し飲みする、スーパーモラトリアムな日々。そんな語学学校生活を経て、野沢さんは、ブルゴーニュのCFPPA(ボーヌ農業促進・職業訓練センター)でディプロマを得た。 ▲ 終始朗らかにご対応くださった野沢さん。お迎えいただきありがとうございました。 しかし、意外にも彼が最も影響を受けた生産者として、名前を挙げるのは 「Domaine de Souch」、1987年創業という異端な歴史を持ちながら、ジュランソンを代表すると評される生産者だ。 彼女は夫亡き後、60歳代でワイン造りを始めた、ビオディナミの先駆者の一人 です。彼女の造る「Jurancon sec(辛口)」や「moelleux(甘口)」をタンクから試飲させていただいた時、そのあまりにピュアで、土地の花や土の風味に溢れ、自然な風味でそして幸せな余韻も永く続くワインに、とにかく圧倒されました。これこそがテロワール、いやブドウがある風土がそのままワインに出ていると。もちろん、彼女の人柄がワインに表れていたのは言うまでもありません。 広大な敷地に、荘厳かつ柔らかい空気纏って佇む、養蚕農家を移築したという日本家屋の母屋が印象的な『くらむぼんワイン』。自家醸造の酒蔵として大正2年に創業した同社は、協同組合となって近隣の農家の葡萄からワインを醸造。 ▲ 吹き付ける強風に「ガタガタ」と大きな音を立てる母屋の縁側。夜中にトイレへ行くときは物凄い恐怖感だそうです。 昭和37年から、農家の株を買い取り「有限会社山梨ワイン醸造」が設立。後に株式会社化を経て、2014年、『株式会社くらむぼんワイン』と社名変更がなされた。 野沢たかひこさんは、同社の三代目に当たる。 「フランスから帰国してワイナリーで働き始めた当初は、日本のような雨が多い 気候では農薬を効果的に散布しなければブドウの収穫が出来ないと考えて、叢生 栽培は行っていましたが、化学農薬・肥料は普通に使っていました。」 そういった、謂わば「農家として普通の栽培」を行っていた野沢さんが出会ったのが、福岡正信著作の「自然農法 藁一本の革命」だった。...

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山梨・くらむぼんワイン

日本ワインコラム | 山梨 くらむぼんワイン 「一番の転機は、フランスへ行ったことです。23歳の時に留学をしました。当時は、家業を継ぐこともあまり考えていなくて、弟がいるので、どちらかが継ぐのだろうなぁ、といったような認識でした。」 アイルトン・セナに憧れて、慶応大学理工学部にまで入り、ゆくゆくはルノーでのエンジニアリングライフを見据えていたかどうかは存じ上げないが、ともあれ、野沢たかひこさんは、FW16程に不安定な大学時代に、学歴社会をコースアウトして、南仏へ飛び立った。 ▲ 「森の香りがするんです。」と、自社畑の土を香る野沢さん。わざわざポーズを決めていただいたのに、普通の写真ですみません。レンズ変えるべきでした。 「ニースのホームステイ先で、ワインを毎日出してくれて、それでワインを初めて美味しいと感じました。それまで、日本に美味しいワインってあまりなかったんですよね。元々は親の仕事にも興味がなくワインには関心がなかったのですが、フランスで体験した、家族や友達が集まり、ワインを中心にして人間関係とかが広まっていく、ということを地元の山梨でもやれたらなぁ、と思いました。 大学時代は、授業にも出ていなかったのですが、フランスに行ったら新しい人生の始まりという感じでした。」 煌びやかなニューライフ。周りには、自分のことを知っているものなど誰もいない。地中海を臨み、国籍の違う仲間たちと、夜な夜なワインをボトルで回し飲みする、スーパーモラトリアムな日々。そんな語学学校生活を経て、野沢さんは、ブルゴーニュのCFPPA(ボーヌ農業促進・職業訓練センター)でディプロマを得た。 ▲ 終始朗らかにご対応くださった野沢さん。お迎えいただきありがとうございました。 しかし、意外にも彼が最も影響を受けた生産者として、名前を挙げるのは 「Domaine de Souch」、1987年創業という異端な歴史を持ちながら、ジュランソンを代表すると評される生産者だ。 彼女は夫亡き後、60歳代でワイン造りを始めた、ビオディナミの先駆者の一人 です。彼女の造る「Jurancon sec(辛口)」や「moelleux(甘口)」をタンクから試飲させていただいた時、そのあまりにピュアで、土地の花や土の風味に溢れ、自然な風味でそして幸せな余韻も永く続くワインに、とにかく圧倒されました。これこそがテロワール、いやブドウがある風土がそのままワインに出ていると。もちろん、彼女の人柄がワインに表れていたのは言うまでもありません。 広大な敷地に、荘厳かつ柔らかい空気纏って佇む、養蚕農家を移築したという日本家屋の母屋が印象的な『くらむぼんワイン』。自家醸造の酒蔵として大正2年に創業した同社は、協同組合となって近隣の農家の葡萄からワインを醸造。 ▲ 吹き付ける強風に「ガタガタ」と大きな音を立てる母屋の縁側。夜中にトイレへ行くときは物凄い恐怖感だそうです。 昭和37年から、農家の株を買い取り「有限会社山梨ワイン醸造」が設立。後に株式会社化を経て、2014年、『株式会社くらむぼんワイン』と社名変更がなされた。 野沢たかひこさんは、同社の三代目に当たる。 「フランスから帰国してワイナリーで働き始めた当初は、日本のような雨が多い 気候では農薬を効果的に散布しなければブドウの収穫が出来ないと考えて、叢生 栽培は行っていましたが、化学農薬・肥料は普通に使っていました。」 そういった、謂わば「農家として普通の栽培」を行っていた野沢さんが出会ったのが、福岡正信著作の「自然農法 藁一本の革命」だった。...

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山梨・機山洋酒工業

山梨・機山洋酒工業

日本ワインコラム | 山梨 機山洋酒工業 「こだわりってね、僕はないんですよ。 若い頃なんか取材でこだわりはなんですかなんて聞かれると、頭にきて、帰れ、とか言っちゃったりしてね。」 率直にいう。私は困った。 ▲ 機山洋酒工業の何から何までをお二人で手掛ける土屋ご夫妻。同じ大学を出られて、国税庁醸造試験所でもご一緒だったそうです。 日本ワインへの造詣が深くないことを半ばコンプレックス気味に自負している筆者にとって、生産者の方々の「こだわり」は、コラムを書く上で、最も容易かつ明解かつ差別化しやすく、深掘りしやすい大事な切り口である。だから、私は洗練されていようが歪であろうが、「こだわり」を要請してきた。 ▲ 気さくに取材に応じてくださった土屋さん。時折挟まれる「いい話でしょ~!?」という念押しが記憶に残っています。筆者は果たして、「いい話」を、いい話として書き下せたのだろうか。 こだわりって、元々の意味で言うと「とらわれている」ような否定的な意味だと思うのですが、僕には、どうしてもこうじゃないといけないってものがないんですよ。例えば「甲州に拘っているじゃないか」と言われることもあるのですが、それは拘っているわけではありません。(気候土壌への適性だけでなく、歴史的な背景など)あらゆる意味合いで、甲州より優れた品種があるのなら、それは変えていきますよ。今、それがないというだけです。 「スマート」というと軽いだろうか、「理知的」というと形式ばって響くだろうか、軽快に慎重に、外交的に内省的に、朗らかに強かに。 その軽微なアンビバテントは、彼が作るワインにも通底したものがあるような気がしている。安いのに旨い、という話ではない。工業的な緻密性で、クラフト的なテイを有しているという意味においてだ。 ▲ フンコロガシをデザインした、かつての機山洋酒工業のエンブレム 山梨県甲州市塩山。日本三大急流にも数えられる富士川へと流れ込む笛吹川の脇、機山洋酒工業は、北東から南西に太平洋へ向かうこの一級河川によって形成された河岸段丘の上に位置するワイナリーだ。 「(先々代は)元々、石炭業を営んでいました。というのも、山梨においては養蚕が盛んな地域で製糸工業が重要な産業でした。絹糸を手繰る際に高温の水が必要なのですが、その熱源となったのが石炭だったのです。」 石炭業からワイン製造への転換の契機となったのは、昭和5年の世界恐慌。世界経済が急激に冷え込んだことによって、輸出産業としての比重が大きかった製糸工業は衰退し、石炭の需要も急落した。 ▲ 直売スペースには、ワインボトルから造られたグラスやミニボトルがしつらえられている。 そういった状況で、養蚕に代わる産業として注目を集めたのがワイン造りでした。 先々代もその産業の遷移の流れに乗り、ワイン造りを始めた。当時3,000もの零細生産者が生まれるほどに勃興したワイン産業だが、その殆どが今は見る影もない。その中で生き残り、現在まで引き継がれているのが機山洋酒工業だ。 三代目の土屋幸三さんは、メーカーの研究員としての6年のキャリアを経て、1994年の8月に会社を辞め、ワイン造りの家業を継いだ。 元々は街の電気屋さんになりたかったので、(大学は)電気とか通信の学科に行こうと思っていました。ですが、父にその話をすると、 「お前、後継ぐんだろ。」なんて言われてしまいまして。「ダメ」っていうならしょうがないなぁ、なんて思いながら調べたら、その当時は、電気通信の学科と醗酵学科の二次試験の科目が同じだったのです。 1980年代のバイオテクノロジー・ブーム。石油・石炭を燃料・原料とした大量消費と爆発的な成長から、微生物や遺伝子組み替えを媒介した、クリーンで省エネルギーな、より緻密な科学によって興される未来が描かれた時代だ。「アマチュア無線免許」まで取得していた電子工作青年だったという土屋さんだが、その時代を象徴すると言える大阪大学醗酵学科で学問を修め、バイオケミカル事業を手がける企業へ就職した。 ▲ こんなにお値打ちで、こんなに美味しいのですが、まだまだ整然に積み重ねられた在庫が。...

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山梨・機山洋酒工業

日本ワインコラム | 山梨 機山洋酒工業 「こだわりってね、僕はないんですよ。 若い頃なんか取材でこだわりはなんですかなんて聞かれると、頭にきて、帰れ、とか言っちゃったりしてね。」 率直にいう。私は困った。 ▲ 機山洋酒工業の何から何までをお二人で手掛ける土屋ご夫妻。同じ大学を出られて、国税庁醸造試験所でもご一緒だったそうです。 日本ワインへの造詣が深くないことを半ばコンプレックス気味に自負している筆者にとって、生産者の方々の「こだわり」は、コラムを書く上で、最も容易かつ明解かつ差別化しやすく、深掘りしやすい大事な切り口である。だから、私は洗練されていようが歪であろうが、「こだわり」を要請してきた。 ▲ 気さくに取材に応じてくださった土屋さん。時折挟まれる「いい話でしょ~!?」という念押しが記憶に残っています。筆者は果たして、「いい話」を、いい話として書き下せたのだろうか。 こだわりって、元々の意味で言うと「とらわれている」ような否定的な意味だと思うのですが、僕には、どうしてもこうじゃないといけないってものがないんですよ。例えば「甲州に拘っているじゃないか」と言われることもあるのですが、それは拘っているわけではありません。(気候土壌への適性だけでなく、歴史的な背景など)あらゆる意味合いで、甲州より優れた品種があるのなら、それは変えていきますよ。今、それがないというだけです。 「スマート」というと軽いだろうか、「理知的」というと形式ばって響くだろうか、軽快に慎重に、外交的に内省的に、朗らかに強かに。 その軽微なアンビバテントは、彼が作るワインにも通底したものがあるような気がしている。安いのに旨い、という話ではない。工業的な緻密性で、クラフト的なテイを有しているという意味においてだ。 ▲ フンコロガシをデザインした、かつての機山洋酒工業のエンブレム 山梨県甲州市塩山。日本三大急流にも数えられる富士川へと流れ込む笛吹川の脇、機山洋酒工業は、北東から南西に太平洋へ向かうこの一級河川によって形成された河岸段丘の上に位置するワイナリーだ。 「(先々代は)元々、石炭業を営んでいました。というのも、山梨においては養蚕が盛んな地域で製糸工業が重要な産業でした。絹糸を手繰る際に高温の水が必要なのですが、その熱源となったのが石炭だったのです。」 石炭業からワイン製造への転換の契機となったのは、昭和5年の世界恐慌。世界経済が急激に冷え込んだことによって、輸出産業としての比重が大きかった製糸工業は衰退し、石炭の需要も急落した。 ▲ 直売スペースには、ワインボトルから造られたグラスやミニボトルがしつらえられている。 そういった状況で、養蚕に代わる産業として注目を集めたのがワイン造りでした。 先々代もその産業の遷移の流れに乗り、ワイン造りを始めた。当時3,000もの零細生産者が生まれるほどに勃興したワイン産業だが、その殆どが今は見る影もない。その中で生き残り、現在まで引き継がれているのが機山洋酒工業だ。 三代目の土屋幸三さんは、メーカーの研究員としての6年のキャリアを経て、1994年の8月に会社を辞め、ワイン造りの家業を継いだ。 元々は街の電気屋さんになりたかったので、(大学は)電気とか通信の学科に行こうと思っていました。ですが、父にその話をすると、 「お前、後継ぐんだろ。」なんて言われてしまいまして。「ダメ」っていうならしょうがないなぁ、なんて思いながら調べたら、その当時は、電気通信の学科と醗酵学科の二次試験の科目が同じだったのです。 1980年代のバイオテクノロジー・ブーム。石油・石炭を燃料・原料とした大量消費と爆発的な成長から、微生物や遺伝子組み替えを媒介した、クリーンで省エネルギーな、より緻密な科学によって興される未来が描かれた時代だ。「アマチュア無線免許」まで取得していた電子工作青年だったという土屋さんだが、その時代を象徴すると言える大阪大学醗酵学科で学問を修め、バイオケミカル事業を手がける企業へ就職した。 ▲ こんなにお値打ちで、こんなに美味しいのですが、まだまだ整然に積み重ねられた在庫が。...

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栃木・ココファーム・ワイナリー

栃木・ココファーム・ワイナリー

日本ワインコラム | 関東・栃木 ココ・ファーム・ワイナリー 我々は一般に 「優れた葡萄産地にあるワイナリーで、優れたワインは造られる。」 と考えることを好む傾向にある。 「ロンドンにある自社畑のリースリングからワイン造りました。」 「ブルゴーニュのピノ・ノワールをパリで醸造しました。」 なんて言われても、なんだか得心がいかない。どんなに完璧な味わいでも、「何か入れてるんじゃないの?」なんて不確かなことを言い始めるのがオチで、どうにも腑に落ちないのである。おそらく。 ▲ 急斜面・強風という状況下でも、こころみ学園の園生は休まず畑に立っている。 欧州を例に出した。日本の場合はどうだろう。 「北海道の葡萄を北海道でワインにしました。」 「山形県の葡萄を山形県でワインにしました。」 いわゆるドメーヌだ。 優れた産地が生んだ葡萄が、その優れた産地でワインになる。 では、これはどうだろう。 「北海道の葡萄を栃木県でワインにする。」 「山梨県の葡萄を栃木県でワインにする。」 栃木県は北関東で、山梨県は中部、あるいは南関東で、北海道は言うまでもない。パリとブルゴーニュの距離の例はさほど大袈裟ではない。 これはどうか。 「栃木県の葡萄を栃木県でワインにする。」 ▲ 元々は松が自生するようなやせた土壌を、川田昇さんが切り拓いた。 栃木県が葡萄の産地として知られているかといえばそうではない。ロンドンの例は流石に誇張だが、実際に葡萄生産量では全国上位10番までにも入っていない。名産と言えば「とちおとめ」「餃子」「レモン牛乳」。「とちおとめ」は果実だが葡萄ではないし、「餃子」は皮と身があっても果実じゃない。「レモン牛乳」はもうよくわからない。 ▲ リースリング・リオンとは思えないほどの厚みと奥行をもった「 のぼ ブリュット...

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栃木・ココファーム・ワイナリー

日本ワインコラム | 関東・栃木 ココ・ファーム・ワイナリー 我々は一般に 「優れた葡萄産地にあるワイナリーで、優れたワインは造られる。」 と考えることを好む傾向にある。 「ロンドンにある自社畑のリースリングからワイン造りました。」 「ブルゴーニュのピノ・ノワールをパリで醸造しました。」 なんて言われても、なんだか得心がいかない。どんなに完璧な味わいでも、「何か入れてるんじゃないの?」なんて不確かなことを言い始めるのがオチで、どうにも腑に落ちないのである。おそらく。 ▲ 急斜面・強風という状況下でも、こころみ学園の園生は休まず畑に立っている。 欧州を例に出した。日本の場合はどうだろう。 「北海道の葡萄を北海道でワインにしました。」 「山形県の葡萄を山形県でワインにしました。」 いわゆるドメーヌだ。 優れた産地が生んだ葡萄が、その優れた産地でワインになる。 では、これはどうだろう。 「北海道の葡萄を栃木県でワインにする。」 「山梨県の葡萄を栃木県でワインにする。」 栃木県は北関東で、山梨県は中部、あるいは南関東で、北海道は言うまでもない。パリとブルゴーニュの距離の例はさほど大袈裟ではない。 これはどうか。 「栃木県の葡萄を栃木県でワインにする。」 ▲ 元々は松が自生するようなやせた土壌を、川田昇さんが切り拓いた。 栃木県が葡萄の産地として知られているかといえばそうではない。ロンドンの例は流石に誇張だが、実際に葡萄生産量では全国上位10番までにも入っていない。名産と言えば「とちおとめ」「餃子」「レモン牛乳」。「とちおとめ」は果実だが葡萄ではないし、「餃子」は皮と身があっても果実じゃない。「レモン牛乳」はもうよくわからない。 ▲ リースリング・リオンとは思えないほどの厚みと奥行をもった「 のぼ ブリュット...

日本ワインコラム
山形・朝日町ワイン

山形・朝日町ワイン

日本ワインコラム | 東北・山形 朝日町ワイン 18歳の頃から41年間、朝日町ワインに人生を捧げてきた 「ミスター・叩き上げ」 現在は取締役・営業本部長を務める近衛秀敏さんは、自らのモットーに、同社の信条を引用する。自身の生き方そのものが、勤務する会社の信条にぴったりと重なるという現象はあまり一般的ではないはずだが、製造から営業までほとんど全ての職務を経験している近衛さんにとって、その一致は自然なことなのかもしれない。 ▲ 平地部のマスカット・ベーリーA 一文字長梢選定。長く伸ばした梢を幹のほうに誘引して、先端部に結実する良質なブドウ 「会社とご自身で同じなんですか。」という問いにも、「そうですね。」の一言である。そうですか。と言うしかない。朝日町ワインと言えば、「価格は控えめながら、安定して高い品質のワイン」というイメージが漠然とでも浮かぶのではないだろうか。近衛さんは、そんな同社に対する、安心・信頼を築き上げた立役者の一人だ。工場長の任を解かれて、営業として各地を回るようになってからも、現場の指導を続け、2代に渡って現場責任者の育成に努めてきた。 私自身はもうワインを作っていなくて、15,6年前から、それまで会社になかった営業職をやっています。(加えて)私たちはチームですから、個人がワイン造りのすべてを決めてきたということはないんです。 ▲ 一文字短梢選定ハヤシスマート法の改良モデル。母枝を一方向のみに残すことで、収量を増やす効果があるそう。 仮に私なら「俺が造った。」ぐらいのことを吹聴しそうなものであるが、いや待て、そういう疾しい人間はそもそも「まじめに」造れないのである。やはり仕事と背中で語る昭和の勤め人的ハードボイルドを纏った近衛さんの存在をして、現在のワイナリーの地位の確立があるのだろう。 さて、朝日町は、山形県中央部、新潟県との県境を構成する朝日連峰の主峰、大朝日岳の東部山麓地域に位置する。最上川の急流が南北21kmにわたり蛇行する町内は、そのの76%が山林に覆われ、何処を見渡しても自然が立ちはだかる。それも雄大なタイプの。 ▲ 一文字短梢選定は、枝の位置が規則的で大変歩きやすい。 山河に埋め尽くされたこの土地には、最上川が形成する河岸段丘の傾斜地が多くみられる。「河岸段丘」という単語から「果樹園」を条件反射的に導けないようでは、受験生失格。2013年にも地理Bにて出題されているように最上川流域では、その段丘を利用した果樹栽培が活発なのである。 ともあれ、この朝日町も豊富な段丘面にリンゴ、ブドウをはじめとした果樹園が広がっている。町の特産物は「無袋(むたい)ふじ」という、果実に保護用の袋をかぶせずに栽培されるふじリンゴ。有袋類とは呼ばないだろうが、袋を被ったリンゴに比べてより甘みが増すという。近衛さんのご実家もリンゴ農家だそうだ。「リンゴとワインの里」たる朝日町で、リンゴ農家に生まれ、41年間ワイナリーに務めている近衛さん。もはや町が歩いているようなものである。 ▲ 柏原ヴィンヤード。山砂の多い痩せた土壌であるため、平地部のブドウと比較して、枝が長く伸びにくいのだそう。最高樹齢は開墾時の植樹の46年 さて、朝日町ワインの設立は昭和19年にまでさかのぼる。 当時、日本政府はワインの成分の酒石酸から、電波探知機の圧電素子に使う軍需物資「ロッシェル塩(酒石酸カリウムナトリウム)」を取り出すことを目的に、全国のブドウ産地に命じてワイン工場を造らせた。それによって、山梨県や山形県などの果樹産地に軍の保護を受けたワイン工場が多く誕生したが、その一つが朝日町ワインの前身となる「山形果実酒製造有限会社」だった。 より有効な材料が発見されたことで、圧電素子としてのロッシェル塩は次第に姿を消し、軍需物質の生産という役割が失われて以降は、甘口ワインブームから需要が高まっていたポートワインの原料となる赤ワインを、大手メーカーへ供給することが主な事業となった。 しかし、昭和50年ころから甘口ワインの需要が衰退し、メーカーからの受注もなくなっていく。またしても供給先を失った状況。そんな中で、ブドウ農家を守るため、山形朝日農協と朝日町が共同出資し、第三セクター方式の会社運営へと転換した。着眼したのは、ポートワインの原料として、町内に多く作付けされていたマスカット・ベーリーA。朝日町ワインは、この品種での「日本一」を目指し、品質にこだわった「まじめなワイン造り」をスタートさせた。 ▲ 標高330mの柏原ヴィンヤードは、非常に冷涼で雪も積もりやすい。向こうに見えるのは、最上川の対岸の河岸段丘 現在は11.3haにも及ぶ朝日町町内の契約農家の畑、そして、自社工場である朝日町ワイン城の前に広がる0.7haの自社畑から年間35万本のワインを生み出す、日本でも指折りの規模のワイナリーとなっている。 起伏の激しい地形である朝日町には、マスカット・ベーリーAの畑だけでも、標高110m~330m、最上川の河岸から山の上まで様々な立地が存在する。その中で、マスカット・ベーリーAという品種での日本一を目指す当ワイナリーにおいて、最も注目され、道中、近衛さんが最も誇らしげに紹介したのが「柏原ヴィンヤード」だ。...

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山形・朝日町ワイン

日本ワインコラム | 東北・山形 朝日町ワイン 18歳の頃から41年間、朝日町ワインに人生を捧げてきた 「ミスター・叩き上げ」 現在は取締役・営業本部長を務める近衛秀敏さんは、自らのモットーに、同社の信条を引用する。自身の生き方そのものが、勤務する会社の信条にぴったりと重なるという現象はあまり一般的ではないはずだが、製造から営業までほとんど全ての職務を経験している近衛さんにとって、その一致は自然なことなのかもしれない。 ▲ 平地部のマスカット・ベーリーA 一文字長梢選定。長く伸ばした梢を幹のほうに誘引して、先端部に結実する良質なブドウ 「会社とご自身で同じなんですか。」という問いにも、「そうですね。」の一言である。そうですか。と言うしかない。朝日町ワインと言えば、「価格は控えめながら、安定して高い品質のワイン」というイメージが漠然とでも浮かぶのではないだろうか。近衛さんは、そんな同社に対する、安心・信頼を築き上げた立役者の一人だ。工場長の任を解かれて、営業として各地を回るようになってからも、現場の指導を続け、2代に渡って現場責任者の育成に努めてきた。 私自身はもうワインを作っていなくて、15,6年前から、それまで会社になかった営業職をやっています。(加えて)私たちはチームですから、個人がワイン造りのすべてを決めてきたということはないんです。 ▲ 一文字短梢選定ハヤシスマート法の改良モデル。母枝を一方向のみに残すことで、収量を増やす効果があるそう。 仮に私なら「俺が造った。」ぐらいのことを吹聴しそうなものであるが、いや待て、そういう疾しい人間はそもそも「まじめに」造れないのである。やはり仕事と背中で語る昭和の勤め人的ハードボイルドを纏った近衛さんの存在をして、現在のワイナリーの地位の確立があるのだろう。 さて、朝日町は、山形県中央部、新潟県との県境を構成する朝日連峰の主峰、大朝日岳の東部山麓地域に位置する。最上川の急流が南北21kmにわたり蛇行する町内は、そのの76%が山林に覆われ、何処を見渡しても自然が立ちはだかる。それも雄大なタイプの。 ▲ 一文字短梢選定は、枝の位置が規則的で大変歩きやすい。 山河に埋め尽くされたこの土地には、最上川が形成する河岸段丘の傾斜地が多くみられる。「河岸段丘」という単語から「果樹園」を条件反射的に導けないようでは、受験生失格。2013年にも地理Bにて出題されているように最上川流域では、その段丘を利用した果樹栽培が活発なのである。 ともあれ、この朝日町も豊富な段丘面にリンゴ、ブドウをはじめとした果樹園が広がっている。町の特産物は「無袋(むたい)ふじ」という、果実に保護用の袋をかぶせずに栽培されるふじリンゴ。有袋類とは呼ばないだろうが、袋を被ったリンゴに比べてより甘みが増すという。近衛さんのご実家もリンゴ農家だそうだ。「リンゴとワインの里」たる朝日町で、リンゴ農家に生まれ、41年間ワイナリーに務めている近衛さん。もはや町が歩いているようなものである。 ▲ 柏原ヴィンヤード。山砂の多い痩せた土壌であるため、平地部のブドウと比較して、枝が長く伸びにくいのだそう。最高樹齢は開墾時の植樹の46年 さて、朝日町ワインの設立は昭和19年にまでさかのぼる。 当時、日本政府はワインの成分の酒石酸から、電波探知機の圧電素子に使う軍需物資「ロッシェル塩(酒石酸カリウムナトリウム)」を取り出すことを目的に、全国のブドウ産地に命じてワイン工場を造らせた。それによって、山梨県や山形県などの果樹産地に軍の保護を受けたワイン工場が多く誕生したが、その一つが朝日町ワインの前身となる「山形果実酒製造有限会社」だった。 より有効な材料が発見されたことで、圧電素子としてのロッシェル塩は次第に姿を消し、軍需物質の生産という役割が失われて以降は、甘口ワインブームから需要が高まっていたポートワインの原料となる赤ワインを、大手メーカーへ供給することが主な事業となった。 しかし、昭和50年ころから甘口ワインの需要が衰退し、メーカーからの受注もなくなっていく。またしても供給先を失った状況。そんな中で、ブドウ農家を守るため、山形朝日農協と朝日町が共同出資し、第三セクター方式の会社運営へと転換した。着眼したのは、ポートワインの原料として、町内に多く作付けされていたマスカット・ベーリーA。朝日町ワインは、この品種での「日本一」を目指し、品質にこだわった「まじめなワイン造り」をスタートさせた。 ▲ 標高330mの柏原ヴィンヤードは、非常に冷涼で雪も積もりやすい。向こうに見えるのは、最上川の対岸の河岸段丘 現在は11.3haにも及ぶ朝日町町内の契約農家の畑、そして、自社工場である朝日町ワイン城の前に広がる0.7haの自社畑から年間35万本のワインを生み出す、日本でも指折りの規模のワイナリーとなっている。 起伏の激しい地形である朝日町には、マスカット・ベーリーAの畑だけでも、標高110m~330m、最上川の河岸から山の上まで様々な立地が存在する。その中で、マスカット・ベーリーAという品種での日本一を目指す当ワイナリーにおいて、最も注目され、道中、近衛さんが最も誇らしげに紹介したのが「柏原ヴィンヤード」だ。...

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山形・月山ワイン

山形・月山ワイン

日本ワインコラム | 東北 山形・月山ワイン 出羽三山の一つ「月山」。 その麓に広がる水隗「月山ダム」に始まる水流は、山肌を削りながら蛇行し、庄内平野を横切って日本海へ注ぎ込む。その山間部、埜字川が削り落とした谷間の河岸段丘上に「庄内たがわ農業協同組合・月山ワイン山ぶどう研究所」のワイナリーは位置している。 ▲ 垣根に仕立てられた、月山ワインのもう一つの旗印「山ソーヴィニヨン」は、積雪に備え幹を強く傾けられている。 背後には、山頂付近を既に雪に覆われた月山連峰、すぐ脇には深い谷を走る急流と、険しい自然に囲まれたその土地には、田畑を敷くに充分な平地がなかった。 「中山間部というお米も取れない土地で、雪も高く積もりますから、冬季の仕事がないのです。そういった中、北海道の池田町をモデルにした事業として、山から採ってきた「ヤマブドウ」を使ったワイン醸造がスタートしました。」 ▲ 日本海側に連なる山々からは、冷たい風が吹き下ろす 北海道の池田町といえば、町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っている「ワインの町」として知られる自治体だ。 そのモデルを参考に(旧)朝日村では、農協が主導し、野生の「ヤマブドウ」を使用したワイン造りを開始した。 「昭和40年代にスタートして、54年に酒造免許が下り、本格的な製造が進んでいきます。そういった中で、野生のヤマブドウの品質には限界があるという事で、ヤマブドウの栽培に着手したのですが、当時はノウハウがありませんから、全くうまくいきませんでした。」 「例えば、今私たちが栽培しているのは『コアニティー種』という雌雄別の品種なのですが、当時はそういったことすらもわかっていなかったので、雄の木ばかり植えて実がならない等、非常に初歩的な問題がありました。」 雨季にはビニールを張り、葡萄を守るため巨大な鉄骨が組まれている。 知識もノウハウもないところからスタートした月山のワイン造り。50年の歳月を経た現在では、 人工受粉やクローン選定の技術が飛躍的に向上し、日本古来の品種としてのヤマブドウの魅力を表現できるクオリティを得られるようになった。今では130軒にも上る栽培農家が、その栽培に取り組んでいる。 品質の向上と共にその知名度も全国区たるものとなっている月山ワインでは、2015年に2.5億円を投じて設備を刷新した。 ジュースを含め200トンを仕込める程のステンレスタンクが立ち並ぶ醸造施設。無駄なく空間に敷き詰められたタンクは、それぞれ醸造作業に最適な形で緻密に設計されている。 「1回のプレスで取れる果汁の量で、ひとつのタンクがほぼ満量に達するように計算していて、仕込み中も余計な酸化を防いでいます。またタンクのバルブの位置も、容量に対して沈澱する澱の高さを事前に計算した上で設計して、誰でもラッキングができるようにもなっています。」 ▲ ワイナリー内には、5年前に新調した清潔感のあるステンレスタンスが林立する。 中でも最も費用をかけたのが「瓶詰めライン」だ。ボトルの中に窒素を充填し、そこへワインを注ぎ込むことで酸化を防ぐ窒素置換設備を備え、打栓前に液面上の空間を真空にすることもできる。 酸化の防止と衛生管理の行き届いた醸造施設は、現在の月山ワインのクリーンで引き締まった味わいを証明する説得力を持っているように映る。そういったスタイルの立役者である工場責任者の阿部豊和さんは、15年以上ワインの醸造に携わってきた。 「元々は、日本酒の製造の仕事をしていたのですが、2003年に月山ワインに入社して、初めて造ったワインが甲州のシュール・リーでした。その当時(今から17、8年前)、地域に甲州葡萄は植っていたのですが、前任の醸造担当者は甲州葡萄にあまり関心がありませんでした。私は入社後、酒類総合研究所で研修をしたのですが、その時に飲んだ山梨県の甲州が美味しくて、『(研修から)帰ったら、絶対にこれを作ろう』と思いました。」 今では、ジャパン・ワイン・チャレンジ等の規模の大きなコンクールでの受賞歴も輝かしく、山形を代表するワインとなりつつある「月山ワイン ソレイユ・ルバン 甲州シュール・リー」であるが、当時は庄内の甲州に対する認知はほとんどなかったそうだ。...

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日本ワインコラム | 東北 山形・月山ワイン 出羽三山の一つ「月山」。 その麓に広がる水隗「月山ダム」に始まる水流は、山肌を削りながら蛇行し、庄内平野を横切って日本海へ注ぎ込む。その山間部、埜字川が削り落とした谷間の河岸段丘上に「庄内たがわ農業協同組合・月山ワイン山ぶどう研究所」のワイナリーは位置している。 ▲ 垣根に仕立てられた、月山ワインのもう一つの旗印「山ソーヴィニヨン」は、積雪に備え幹を強く傾けられている。 背後には、山頂付近を既に雪に覆われた月山連峰、すぐ脇には深い谷を走る急流と、険しい自然に囲まれたその土地には、田畑を敷くに充分な平地がなかった。 「中山間部というお米も取れない土地で、雪も高く積もりますから、冬季の仕事がないのです。そういった中、北海道の池田町をモデルにした事業として、山から採ってきた「ヤマブドウ」を使ったワイン醸造がスタートしました。」 ▲ 日本海側に連なる山々からは、冷たい風が吹き下ろす 北海道の池田町といえば、町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っている「ワインの町」として知られる自治体だ。 そのモデルを参考に(旧)朝日村では、農協が主導し、野生の「ヤマブドウ」を使用したワイン造りを開始した。 「昭和40年代にスタートして、54年に酒造免許が下り、本格的な製造が進んでいきます。そういった中で、野生のヤマブドウの品質には限界があるという事で、ヤマブドウの栽培に着手したのですが、当時はノウハウがありませんから、全くうまくいきませんでした。」 「例えば、今私たちが栽培しているのは『コアニティー種』という雌雄別の品種なのですが、当時はそういったことすらもわかっていなかったので、雄の木ばかり植えて実がならない等、非常に初歩的な問題がありました。」 雨季にはビニールを張り、葡萄を守るため巨大な鉄骨が組まれている。 知識もノウハウもないところからスタートした月山のワイン造り。50年の歳月を経た現在では、 人工受粉やクローン選定の技術が飛躍的に向上し、日本古来の品種としてのヤマブドウの魅力を表現できるクオリティを得られるようになった。今では130軒にも上る栽培農家が、その栽培に取り組んでいる。 品質の向上と共にその知名度も全国区たるものとなっている月山ワインでは、2015年に2.5億円を投じて設備を刷新した。 ジュースを含め200トンを仕込める程のステンレスタンクが立ち並ぶ醸造施設。無駄なく空間に敷き詰められたタンクは、それぞれ醸造作業に最適な形で緻密に設計されている。 「1回のプレスで取れる果汁の量で、ひとつのタンクがほぼ満量に達するように計算していて、仕込み中も余計な酸化を防いでいます。またタンクのバルブの位置も、容量に対して沈澱する澱の高さを事前に計算した上で設計して、誰でもラッキングができるようにもなっています。」 ▲ ワイナリー内には、5年前に新調した清潔感のあるステンレスタンスが林立する。 中でも最も費用をかけたのが「瓶詰めライン」だ。ボトルの中に窒素を充填し、そこへワインを注ぎ込むことで酸化を防ぐ窒素置換設備を備え、打栓前に液面上の空間を真空にすることもできる。 酸化の防止と衛生管理の行き届いた醸造施設は、現在の月山ワインのクリーンで引き締まった味わいを証明する説得力を持っているように映る。そういったスタイルの立役者である工場責任者の阿部豊和さんは、15年以上ワインの醸造に携わってきた。 「元々は、日本酒の製造の仕事をしていたのですが、2003年に月山ワインに入社して、初めて造ったワインが甲州のシュール・リーでした。その当時(今から17、8年前)、地域に甲州葡萄は植っていたのですが、前任の醸造担当者は甲州葡萄にあまり関心がありませんでした。私は入社後、酒類総合研究所で研修をしたのですが、その時に飲んだ山梨県の甲州が美味しくて、『(研修から)帰ったら、絶対にこれを作ろう』と思いました。」 今では、ジャパン・ワイン・チャレンジ等の規模の大きなコンクールでの受賞歴も輝かしく、山形を代表するワインとなりつつある「月山ワイン ソレイユ・ルバン 甲州シュール・リー」であるが、当時は庄内の甲州に対する認知はほとんどなかったそうだ。...

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山形・酒井ワイナリー

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日本ワインコラム | 東北・山形 酒井ワイナリー クロード・レヴィ=ストロース。 実存主義に支配された大戦後の西欧近代、その停滞を構造主義というツールを用いて喝破したフランスの知の巨人である。 酒井ワイナリーの酒井一平さんが、好きな本として真っ先に挙げたのは、彼の代表作『野生の思考』。 この著作の中で彼は、西欧近代の科学思考によって、非合理で野蛮であると貶められてきた未開人の思考を、人類に普遍的なものとして鮮やかに復権して見せる。その中で、レヴィ=ストロースは「近代知」、つまりは、まず概念があり、それを必要十分な材料で組み立てていくに思考法に対置して、「ブリコラージュ(日曜大工)」というキー概念を導入する。 ▲ ブティック入口の窓際には、酒井さんが大切に育てる多肉植物の鉢がぎっしり。 それは、ありあわせの素材をもとに、それらを組み合わせ、各素材が本来もつものとは別の目的や用途に流用をしていく思考法を指す。冷蔵庫にあるありあわせの食材で夕食を賄うことなどは、ブリコラージュの発想を象徴している身近な現象であろう。 「なるべく外部から物を調達しないで、周りにあるものでやりくりをする、完結させるというのが基本的な考え方ですね。」 そう語る酒井さんのワイン造りは、構造主義的視点からみた、「ブリコラージュ」そのもののように思われ、「野生の思考」の実践のようにも解釈できる。 ▲ おしどりカラーが雅なE3系 JR新幹線つばさ127号 山形行 明治に入ってから西洋人が訪れる機会が出来て、その事を商機ととらえた酒井ワイナリーの初代が西欧諸国の時代が訪れるにあたって、それらの国で飲まれていたワインを造る事を決意したようです。初代は様々な事業を起こしていたビジネスマンだったようですが、ワイン造りもそうした中の事業の一つとして始まりました。 山形県南陽市赤湯。 明治25年、東北で最も長い歴史を持つワイナリーは、開国と共に増え始めた外国人の来訪に目を付けた初代・弥惣さんによって創業された。周囲を険しい山に囲まれた盆地は、果樹栽培に向く土地ではなかったため、多くの畑は山肌を削って作られた。 「赤湯のある場所は白竜湖という湖が昔一帯に広がっていた名残のある盆地で、平地は湿地地帯で、田んぼにしかならない。ワインを造ろうと考えると山を切り開いて急な斜面でブドウ畑をつくるしか方法がありません。その為赤湯のブドウ畑はそのほとんどが急斜面にあります。」 ▲ JR赤湯駅東口。パラグライダーを模したモダンなデザインは、旧通商産業省のグッドデザイン賞を受賞している。 市街地にあるワイナリーを離れ、すっかり紅葉も終わり寒々しい装いの山道を上ること数分。前方が置賜盆地によって景色が開け、手前には奥羽本線と山形新幹線を見下ろす南東向きの山肌。その上に広がるのが「名子山」という酒井ワイナリーを代表する自社葡萄畑だ。 名子山は名前の「名」に、子供の「子」と書くのですが、これは当時ほとんど水飲み百姓、農奴、奴隷みたいな意味合いで、何も持っていないという事なのですね。この山は本当に痩せた土地で、石だらけなので、何の作物も育てられないし、取れないという意味でこの名前だったのだと思います。 ▲ ワイナリーには温もりのある、小さなブティックが隣接している。 30度以上の斜度を持つ急斜面の上には、ゴロゴロと石が転がっており、土壌は礫質や砂質が主体となっている。段々畑の石垣も、元々畑にあったおびただしい数の岩石を使って築き上げたものだ。南東向きの急傾斜地という条件から、日当たりがよく、水はけも良好だ。 一方で、この畑には人間が介入するのが非常に困難な環境だ。急斜面という条件下から、おおよその機械が導入することが難しい。そこで、酒井さんのブリコラージュでは羊を用いる。現在9頭いる羊は、食肉、羊毛、としての用途から逸れて、この畑では除草剤として機能する。 「この通り急傾斜地なのでまったく(作業の)機械化が出来ない場所なのですよね。草刈り機は当たり前のように入れませんし、段々畑になっている事もあり、農薬散布をするにしても全て手作業です。それで(この区画では)羊を飼って放牧をするようになりました。(羊を飼うようになって)草刈はまったくしていません。やはり手作業ではコントロールが難しいのですが、この通り羊を放牧することでコントロールが出来ています。年間何回にも分けて草刈を行わない限りこの状態に保てないのですが、羊にとっては餌なのでしっかりと食べてくれる。」...

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日本ワインコラム | 東北・山形 酒井ワイナリー クロード・レヴィ=ストロース。 実存主義に支配された大戦後の西欧近代、その停滞を構造主義というツールを用いて喝破したフランスの知の巨人である。 酒井ワイナリーの酒井一平さんが、好きな本として真っ先に挙げたのは、彼の代表作『野生の思考』。 この著作の中で彼は、西欧近代の科学思考によって、非合理で野蛮であると貶められてきた未開人の思考を、人類に普遍的なものとして鮮やかに復権して見せる。その中で、レヴィ=ストロースは「近代知」、つまりは、まず概念があり、それを必要十分な材料で組み立てていくに思考法に対置して、「ブリコラージュ(日曜大工)」というキー概念を導入する。 ▲ ブティック入口の窓際には、酒井さんが大切に育てる多肉植物の鉢がぎっしり。 それは、ありあわせの素材をもとに、それらを組み合わせ、各素材が本来もつものとは別の目的や用途に流用をしていく思考法を指す。冷蔵庫にあるありあわせの食材で夕食を賄うことなどは、ブリコラージュの発想を象徴している身近な現象であろう。 「なるべく外部から物を調達しないで、周りにあるものでやりくりをする、完結させるというのが基本的な考え方ですね。」 そう語る酒井さんのワイン造りは、構造主義的視点からみた、「ブリコラージュ」そのもののように思われ、「野生の思考」の実践のようにも解釈できる。 ▲ おしどりカラーが雅なE3系 JR新幹線つばさ127号 山形行 明治に入ってから西洋人が訪れる機会が出来て、その事を商機ととらえた酒井ワイナリーの初代が西欧諸国の時代が訪れるにあたって、それらの国で飲まれていたワインを造る事を決意したようです。初代は様々な事業を起こしていたビジネスマンだったようですが、ワイン造りもそうした中の事業の一つとして始まりました。 山形県南陽市赤湯。 明治25年、東北で最も長い歴史を持つワイナリーは、開国と共に増え始めた外国人の来訪に目を付けた初代・弥惣さんによって創業された。周囲を険しい山に囲まれた盆地は、果樹栽培に向く土地ではなかったため、多くの畑は山肌を削って作られた。 「赤湯のある場所は白竜湖という湖が昔一帯に広がっていた名残のある盆地で、平地は湿地地帯で、田んぼにしかならない。ワインを造ろうと考えると山を切り開いて急な斜面でブドウ畑をつくるしか方法がありません。その為赤湯のブドウ畑はそのほとんどが急斜面にあります。」 ▲ JR赤湯駅東口。パラグライダーを模したモダンなデザインは、旧通商産業省のグッドデザイン賞を受賞している。 市街地にあるワイナリーを離れ、すっかり紅葉も終わり寒々しい装いの山道を上ること数分。前方が置賜盆地によって景色が開け、手前には奥羽本線と山形新幹線を見下ろす南東向きの山肌。その上に広がるのが「名子山」という酒井ワイナリーを代表する自社葡萄畑だ。 名子山は名前の「名」に、子供の「子」と書くのですが、これは当時ほとんど水飲み百姓、農奴、奴隷みたいな意味合いで、何も持っていないという事なのですね。この山は本当に痩せた土地で、石だらけなので、何の作物も育てられないし、取れないという意味でこの名前だったのだと思います。 ▲ ワイナリーには温もりのある、小さなブティックが隣接している。 30度以上の斜度を持つ急斜面の上には、ゴロゴロと石が転がっており、土壌は礫質や砂質が主体となっている。段々畑の石垣も、元々畑にあったおびただしい数の岩石を使って築き上げたものだ。南東向きの急傾斜地という条件から、日当たりがよく、水はけも良好だ。 一方で、この畑には人間が介入するのが非常に困難な環境だ。急斜面という条件下から、おおよその機械が導入することが難しい。そこで、酒井さんのブリコラージュでは羊を用いる。現在9頭いる羊は、食肉、羊毛、としての用途から逸れて、この畑では除草剤として機能する。 「この通り急傾斜地なのでまったく(作業の)機械化が出来ない場所なのですよね。草刈り機は当たり前のように入れませんし、段々畑になっている事もあり、農薬散布をするにしても全て手作業です。それで(この区画では)羊を飼って放牧をするようになりました。(羊を飼うようになって)草刈はまったくしていません。やはり手作業ではコントロールが難しいのですが、この通り羊を放牧することでコントロールが出来ています。年間何回にも分けて草刈を行わない限りこの状態に保てないのですが、羊にとっては餌なのでしっかりと食べてくれる。」...

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